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2019 県庁ねぶた実行委員会 朝比奈三郎と閻魔 大白 我鴻 朝比奈義秀は鎌倉時代初期の武士。和田義盛の三男で、朝比奈三郎と称した。名字は安房国朝夷郡に由来する。建暦三年(1213年)の和田合戦では一族と共に奮戦し、その剛勇無双ぶりは神のごとく、朝比奈三郎と戦って死を免れるものはないといわれるほどであった。このねぶたは、地獄へ送る人々を求めて六道の辻に出ていた閻魔大王が、偶然出くわした朝比奈三郎を地獄へ落とそうとする場面であり、一心不乱に責める閻魔大王と威風堂々たる朝比奈三郎を描いたものである。
2019 日本通運ねぶた実行委員会 竜飛の黒神 男鹿の赤神 林 広海 昔々、青森県の竜飛というところに黒神という神様が住んでいました。また、秋田県の男鹿半島というところに赤神という神様も住んでいました。黒神は筋骨隆々としてその風貌も荒々しかったが、一方、赤神は笛の名手であり、性格も心優しかった。二人の神様は十和田湖というところのほとりに住むとても美しい女神を自分の妻にしようと争います。黒神は竜を飛ばし赤神に襲いかかります。赤神は、数知れぬ鹿を繰り出し野山を埋めて黒神を迎えます。竜は口から火を吹いて鹿を追い払い、鹿は鋭い角で竜に立ち向かいます。どちらの神も決してあきらめず、なかなか決着がつきません。その時、この戦いをひと目見ようと各地から八百万(やおろず)の神々が、津軽の岩木山に集まりました。頂上を挟んで黒神派は右側、赤神派は左側へと陣取ったとき、黒神を支持する方が多かったために、その重みで岩木山の右肩が低くなったと言われていますやがて、黒神が勝利し、赤神は傷つき、その血で大地を染めて紅葉に変えながら、男鹿へ逃げ帰って行きました。ところが女神は負けた赤神に同情し、赤神を追って行ってしまいました。戦いには勝ったものの女神を失った黒神は、悲しみのあまりため息をつきました。その大きなため息によって地が裂け、津軽海峡ができたと言われています。
2019 青森県板金工業組合 「舎利」韋駄天と足疾鬼 北村 蓮明 京都の東山山麓に泉涌寺というお寺があり、そこにはお釈迦さまの牙舎利(歯)が安置されている。 経文や説法をされたお口に近い歯ということで特にありがたく尊い舎利である。 出雲国から来た僧が、やっとのことで牙舎利を拝めることになり、韋駄天を従えた仏舎利を前に、心静かに拝んでいると、いつのまにか、そばで涙を流している男がいた。 急に空がまっ黒になり、雷光が走りだし、その男は鬼に姿を変えると「我こそはその昔、お釈迦さまの骨を盗んで逃げた足疾鬼じゃ」と叫び、牙舎利をかかえ、虚空へ逃げ去ってしまったのである。 増長天の弟子に足の速い韋駄天がおり、地の果てまで足疾鬼を追いつめ、こらしめて牙舎利を取り返してから、何千年もたつのにまた現れたのである。 僧と寺男たちの祈りにより、韋駄天像が動き出し、すぐに後を追い始めると、天上界へと逃げる足疾鬼だったが、法力にはかなわず、ついに元の人間界へけ落とされてしまう。 散々ふみつけられ、泣く泣く舎利を返したのである。 僧たちが気がつくと、韋駄天は元の像の姿に戻っていたという。 足疾鬼の気もちが正しい道に向かうよう祈り、僧は故郷へ帰って行った。
2019 東北電力ねぶた愛好会 十和田湖伝説「南祖坊と八之太郎」 京野 和鴻 その昔、三戸郡斗賀村(現南部町)で生をうけた南祖坊(なんそぼう)は、才知に優れた天童で、齢十八で故郷を離れ、なだたる霊山で修行を重ねた名僧である。修行で熊野の地を訪れた折「この世で最も美しい山と湖をそなたに授けよう。鉄のわらじの緒が切れたところがその地じゃ」との熊野権現のご神託をうけた。熊野を離れ修行を重ねる南祖坊が十和田山の頂きに辿り着いた時、ついにわらじの緒が切れた。すると、湖の主「八之太郎」が現れ、九頭竜に化身し南祖坊に戦いを挑んできた。雷鳴が轟き天地揺るがす戦いが七日七夜繰り広げられるも勝敗は決せず、南祖坊はとうとう仏様の力を借りて法華経を頭上に掲げると、経文一字一字が矢となって八之太郎に突き刺さり、ついに八之太郎を倒した。令和の御代最初の出陣は、青森県ゆかりの「南祖坊」と「十和田湖」に題材を求め、時代が変わっても地域とともに歩み「東北の繁栄と発展に貢献する」という、創立以来の理念を確実に継承していく覚悟と決意を込めております。
2019 サンロード青森 龍飛崎「義経幻視行」 千葉 作龍 源義経は、兄頼朝に追われ京から吉野、そして北陸加賀を経て奥州平泉の藤原秀衡の基へと落ちのびる。その後、頼朝の奥州攻めにより平泉で最期を遂げた。しかし、実は新天地・蝦夷を目指し逃げのびたのだという。そして、苦難の末竜飛崎に辿り着くも、強風荒れ狂う海に行く手を阻まれ渡ることができない。その時白髪の翁が現われ、三頭の龍馬を与えられ無事海峡を渡ることができたという。(このねぶたの場面)白髪の翁は、義経の守護仏・観世音菩薩の化身であった。その後、蝦夷から大陸に渡り、成吉思汗となりモンゴル帝国を築いたとも伝えられている。
2019 ねぶた愛好会 土蜘蛛 諏訪 慎 源頼光が病で床に伏していたところ、突然、身の丈七尺あまりの怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀「膝丸」で斬りつけると、僧は蜘蛛の糸を投げつけ、逃げ去った。翌日、頼光が四天王に命じて僧の血痕を追うと、古塚にたどり着き、中から全長四尺の巨大な蜘蛛が姿を見せ、糸を繰り出し抵抗するが斬り伏せられてしまう。蜘蛛の腹からは、無数の髑髏が出てきた。頼光の病はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は、以後「蜘蛛切り」と呼ばれるようになった。
2019 青森菱友会 紀朝雄の一首 千方を誅す 竹浪 比呂央 草も木も我が大君の國なればいづくか鬼の棲なるべき?天智天皇の御代の伝説である。藤原千方という豪族がいた。彼は、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四鬼を意のままに操ることができた。堅固な体で矢をも通さない金鬼。大風を吹かせ敵城を吹き破る風鬼。洪水を起こし陸地で敵を溺れさせる水鬼。その姿を隠し突然敵に襲いかかる隠形鬼。四鬼の術はいずれも人の力では防ぎようがなく、千方の領する伊勢・伊賀両国の王化は難航を極めた。こうした事態を受けて、天皇より千方討伐を命じられたのが、紀朝雄という人物である。朝雄はかの地に赴くと、冒頭の和歌を一首詠み、鬼たちに向けて送った。「草も木もすべてこの国のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所などどこにあろうか。」この歌を受けた四鬼は術を奪われ一目散に逃げ去った。そして勢力を失った千方を、朝雄は見事討ち果たしたのである。新天皇陛下の御即位を奉祝し、新時代「令和」のこの国の安寧と繁栄を祈り願うものである。
2019 公益社団法人 青森青年会議所 治平天成の願 浪岡北畠 油川奥瀬 立田 龍宝 善知鳥村と呼ばれていた頃の青森。浪岡北畠氏の先祖である北畠親房は村上源氏の流れを汲む名家の生まれで、後醍醐天皇から厚く信任された。また親房の子顕家は陸奥鎮守府将軍という高い位に就き、のちに宮城県の多賀城にて陸奥国を治めた。その後、顕家の子顕成が陸奥の南部氏を頼って北に向かい、浪岡に入部し浪岡御所を構えると、外ヶ浜、西海岸において北畠氏は大きな影響力を持った。北畠氏は油川の熊野十二所権現の再興にも関わり、地域の信仰の中心地を設けた。その油川は交易船が出入りする商港であり、「家数千軒、外ヶ濱一の大邑」と呼ばれ、陸奥湾に広がる海上交通の中心地となった。また陸上交通に於いても羽州街道、松前街道、善知鳥村を経て、南部領に向かう三本の街道が集まる要であった。そのような油川を治めていたのが、南部藩の家臣奥瀬善九郎である。奥瀬氏は南部高信より油川城の城主に任命され、北畠氏と共に浪岡油川を発展させたのである。ねぶたは、密教法具を握りしめる浪岡の北畠氏と、陸奥湾を巡る交易船に乗った油川の奥瀬氏が、郷土青森の繁栄という同じ夢に向かって活躍している姿である。二人の視線の先には、平和と繁栄の象徴である神々しい龍が輝いている。新たな元号が制定された本年が、浪岡北畠氏と油川奥瀬氏が青森を繁栄へと導いた熱き想いを継ぎ、近郷近在の善男善女で賑わっていた中世の頃の美しさを陸奥湾に写し、自らの意思で以て郷土を愛する行動を興す時代となることを切に願っている。
2019 に組・東芝 羅城門 北村 隆 羅城門とは、京の都の南端(現在の東寺の近く)にあった門である。都において南に面する大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門で朱雀門と言われていた。ある時、源頼光が四天王の渡辺綱と坂田金時、碓井貞光、卜部季武と飲んでいた時、羅城門に出没する鬼の話になった。飲んでいる故に皆大胆になり、一人ずつ羅城門へ行って肝試しをすることとなった。一人ずつ行ってきて、渡辺綱の番になった時。羅城門に行って証拠の立て札を立て、帰ろうとした時のこと。綱は不意に兜を何者かに掴まれた。身の危険を感じ、刀を抜き斬りかかる。相手が逃げていくと、そこには兜を掴んだままの鬼の腕が残されていたという。渡辺綱の武勇伝として伝えられている。
2019 ヤマト運輸ねぶた実行委員会 菅原伝授手習鑑 車引 北村 隆 平安時代醍醐天皇の頃、左大臣と右大臣はとても仲が悪かった。ある時三つ子の男の子が生まれた。当時三つ子は珍しく縁起が良いと菅丞相(菅原道真)は松王丸、梅王丸、桜丸と名付ける。やがて成長し、松王丸は藤原時平へ、梅王丸、桜丸は斎世親王の元へ奉公する。左大臣の藤原時平は右大臣の位にあった菅丞相を陥れようと画策。のちに菅原道真は謀反の罪をきせられ太宰府へ流刑となる。これが事件の発端である。?時は流れ、吉田神社の近く。梅王丸と桜丸は偶然、左大臣藤原時平が吉田神社へ参詣するとの噂を聞く。これを聞いた二人は今こそ時平に返報できる機会と思い時平の牛車を襲う。だが、時平の牛飼いである松王丸に阻まれる。互いに牛車をやるやらぬと引き合う内に牛車は大破し中から時平が姿を見せた。梅王丸と桜丸は襲いかかろうとするが「やあ、時平に向かい推参なり」とくわっと睨んだその眼力に二人は動けなくなる。その様子を見ていた松王丸は成敗しようとするが、時平は境内を汚すことを許さず、また松王丸の忠義に愛でて二人の無礼をなかったことにする。?場面は梅王丸、桜丸が時平と松王丸に対峙する姿である。
2019 パナソニックねぶた会 一角仙人と龍神 北村 蓮明 昔々、天竺のハラナ国に額に一本の角を持つ男がいた。幼い頃より人々に一角と呼ばれ、鹿の胎内から生まれたと噂されていた。やがて仙境にこもり、修行の末にすさまじい神通力を持つ仙人となり、皆から恐れられていた。ある時、雨を司る龍神と争った一角仙人は、神通力で龍神たちを岩屋の中に封じ込めてしまった。そのためハラナ国は数ヵ月にわたり一滴の雨も降らず、大干ばつになってしまった。憂慮した国王は一計を案じ、旋陀夫人という絶世の美女を仙人のもとに送り込む。果たして夫人の色香に迷った仙人は、夫人の酒杯を受けて酔い、一緒に舞を舞っているうちに眠りこけてしまう。やがて大地が激しく地鳴りを始め、岩屋は砕け散り、龍神たちが一斉に踊り出て仙人を追い立てるが、神通力を失った仙人は、ついに大地に伏してしまった。龍神たちは、天地四方に飛び散って行き、国中に恵みの雨を降らせたという。
2019 青森自衛隊ねぶた協賛会 北の守護神「玄武と毘沙門天」 有賀 義弘 毘沙門天は仏教で護法神として、四天王の一尊として数えられる。独尊では、毘沙門天、四天王としては多聞天とも呼ばれ北の方角をつかさどる守護神である。また、福や財をもたらす神としても信仰され、七福神の一人とされてきた。玄武は、中国の伝説上の神獣で四神の一柱として北の方角を守護する。一般的に亀の体に蛇が巻き付いた姿、或いは尾が蛇になっている亀の姿で描かれる。その姿から厳しい状況の中に、強い安定感を生み出し運気を切り開くといわれる。このねぶたは、毘沙門天と玄武がともに北を守護する姿をあらわしており、困難な状況下にも負けずに北を守る青森駐屯地の隊員の姿を重ね合わせたものである。
2019 消防第二分団ねぶた会・アサヒビール 安穏無事 火消の纏 立田 龍宝 平成の時代が幕を閉じ、新たな元号「令和」とともに新たな時代が始まった。平成は地震・豪雨など甚大な被害が多く、尊い命が奪われた。消防団は地域に根差した組織で、江戸時代には「町火消し」といわれ庶民の安全を守り 火災が発生すると粋な男たちが駆け付け、消火作業に当たった。そこでは纏を振る男伊達な姿、鳶口や刺又を持ち、延焼を防ぐために家屋を壊し庶民の安穏無事を守ったのである。今年度消防第二分団ねぶた会・アサヒビールはねぶた出陣七〇回目を迎え、これからも地域の安全を守ると共に、青森ねぶた祭の継承と更なる発展に貢献し、令和の時代が安穏無事であることの願いを込めたねぶたである。
2019 日立連合ねぶた委員会 坂上田村麿「ねぶた伝説」 北村 蓮明 今から約千二百年前。東北には蝦夷と呼ばれた縄文文化の流れを汲む部族があった。時の朝廷 桓武天皇は、東北、陸奥地方をも支配下に置こうと、何度も軍を送るがことごとく敗れ、最後の切札として、武官である坂上田村麿を送ることにした。坂上田村麿は、防具や鎧を強化するなど軍制を改革し、岩手胆沢地方を平定させ、いよいよ津軽青森へと入り、最も手強い大丈丸を追いつめ成敗した。次に八甲田山中へ立てこもる女首領の阿屋須と、弟で副首領の屯慶を、原生林深く攻め入るが、本陣がわからず、逆に毒矢を射られて苦戦を強いられた。そこで坂上田村麿は考え、茅で大きな人形を作らせ、あわせて笛、太鼓、鉦をたたき囃し立てた。何事かと珍しさに現れた者たちに、阿屋須と屯慶の居所を聞き出し、大灯籠を用いて討ったのである。ねぶたは、大灯籠の原型「茅人形」を用いて、屯慶と相対する場面、今日に伝わる「青森ねぶた」の原型「ねぶた伝説」のはじまりとされる。さらなる郷土の発展を願う。
2019 青森市役所ねぶた実行委員会 奉祝の舞 廣田神社 津軽神楽 京野 和鴻 津軽地方一円の各神社では、一年で最も重要な神事である例大祭に「津軽神楽」を奉納している。その起源は、津軽藩四代藩主津軽信政公が亡くなられた際、神職が江戸や京都で神楽の研鑽を積み、信政公が祀られた高照神社(弘前市)に奉納したことが始まりとされ、社家である神職しか奏楽することができない神楽である。九九六年に創建された「廣田神社」では、信政公に家老として重用され、青森御仮屋の二代目城代として、青森市のまちづくりに尽力した「進藤庄兵衛正次」が御祭神の一柱として祀られており、毎年六月には、国家の安寧と長久の平和を願って「津軽神楽」を奉納している。このねぶたは、天皇陛下の御即位と新たな元号を祝い、新しい時代が災厄や困難に見舞われることのないよう厄を祓うため、天狗の面を被って猿田彦命に扮した神職が演目の1つである宝剣を舞い、五穀豊穣、無病息災をもたらす権現様を祀り、「津軽神楽」を奉納する場面を表したものである。
2019 私たちのねぶた自主製作実行委員会 おらほの田んぼの水神さん 私たち一同 春が来て、雪が解けて、滔滔と流れる青森の水。?時には氾濫したり、イタズラもするが、田んぼに注がれると、秋には、稲穂を稔らせ、恵を与えてくれる。?まるでイタズラ小僧のよう。?これは、田んぼに注がれる時の、水のようすを表現したねぶたです。
2019 青森市PTA連合会 天の岩戸 内山 龍星 天照大神が弟・須佐之男命の甚だしい粗暴に怒り、天の岩戸に隠れ籠った為に世の中は天地暗黒となり、諸種の悪神が跳梁してしまった。困り果てた八百万の神々は天の安の河原に集まり祭りを行った。思金の神が常世の長鳴鳥を鳴かせ、岩戸の前で神々に囃させて天宇受売命に乱舞させた。その騒ぎに天照大神が怪しんで岩戸を少し開けて外を覗いた時、大力の天手力男命が岩戸を引き開け大神を外へ招致した。すると再び、暗黒の世に太陽の光が戻ったという。?平成時代は大きな自然災害が多かったが、新元号(令和)になった今、平和な時代が過ごせるよう、扉を開け邁進して行きたいものである。
2019 あおもり市民ねぶた実行委員会 神武東征 北村 麻子 日本の初代天皇である神武天皇(カムヤマトイワレヒノミコト)は日本を統治する為、東を目指し日向の国(宮崎県)を発ちました。幾多の戦いと苦難を乗り越えながら神武天皇の軍は東征を目指しました。そして、ついに大和を治める豪族の宿敵長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いが始まりました。長髄彦の軍は要害の地にたてこもり、なかなか打ち破る事ができませんでした。要害の地にたてこもった長髄彦の軍に対し、神武天皇は弓を持って小高い丘の上から全軍を指揮していました。その時、辺りが急に真っ暗になり黒雲の中から燦然と輝く金色の1羽の大きなトビがあらわれました。光がさしたかと思うと、トビは神武天皇が持つ弓の上端に飛来して止まり、その体からせりかがやく金色のまばゆい稲光を発して敵軍の目をくらまして戦意を削いで勝利をもたらしたといわれます。神武天皇最大のクライマックスの場面をねぶたにしました。その後、神武天皇は、大和を平定し、奈良県橿原で初代天皇として即位したとされます。今年は30年余り続いた「平成」が終わり、年号が新しく変わるこの年に、日本に生まれた者として自分の国の成り立ちをねぶたを通して、未来を担う多くの子供たちに知ってほしいという熱い思いで制作しました。
2019 JRねぶた実行プロジェクト 浄焔 日本武尊 竹浪 比呂央 大和朝廷が勢力を拡大していた五、六世紀。反乱を起こした蝦夷平定の勅命を受け、勇壮な戦いを繰り広げたのが日本武尊である。景行天皇の皇子として生まれた日本武尊は幼い頃より武勇に優れ、十六歳で初陣し、西国の熊襲を平定、次いで出雲へ赴き出雲建を討ち、大和へ帰還するも、程なくして今度は東国平定の命を受ける。出立した日本武尊はまず伊勢神宮を拝し、ここで神宮に仕える叔母の倭姫命より、天叢雲剣と火打石を授かる。そして東へと進むが、相模に入ったところで土賊の長に欺かれ、野原で火攻めにされてしまう。烈しい風が起こり、煙が立ちこめる。窮地に陥った日本武尊であったが、伊勢で授かった天叢雲剣を抜き草木を薙ぎ払うと、火は静まり難を脱することができたのであった。渦巻く火焔、災いを払う浄焔を背に、勇ましく剣を振る日本武尊。その雄姿に、新時代「令和」のこの国の繁栄と安寧を祈り願うものである。
2019 青森山田学園 船の草摺引 北村 隆 「曽我物語」から始まる和田酒盛の物語である。朝比奈三郎と曽我五郎時宗の力比べの場面は有名である。荒馬に乗って大力の曽我五郎時宗、同じく大力の朝比奈三郎。大磯宿・七里ヶ浜の場面。兄、曽我十郎祐成が高官たちに嬲られていると聞いて助けに行こうとする。身体には碇綱が巻かれている。後見人の朝比奈三郎は短気を起こさぬよう引き止め鎧の草摺を引くものの時宗は一向に動く様子がない。大力の朝比奈が更に時宗の草摺を引くと、ついに船は壊れ、草摺は切れて朝比奈は後ろへ倒れてしまったという。
2019 NTTグループねぶた 瓊瓊杵尊と木花咲耶姫 北村 春一 瓊瓊杵尊は、天照大神より三種の神器と稲穂を授かり「稲を育てこの国を繁栄させるように」と託され、高天原(天界)から葦原中国(地上)へ降り立った。これを「天孫降臨」という。日向の高千穂に降臨した瓊瓊杵尊は、笠沙の岬で木花咲耶姫と出逢い妻にした。木花咲耶姫は花のように美しく儚さを象徴しているが、火中出産の説話から母親としてのたくましさも併せ持つ女神である。生まれた三人の子の名を火照命、火須勢理命、火遠理命といい、その中の火遠理命は、後に日本の初代天皇となる神武天皇の祖父にあたる。瓊瓊杵尊には、五穀豊穣・国家安泰・家内安全など、木花咲耶姫には、繁栄・安産・子育てなどのご利益があり、全国各地の神社、富士山の守り神としても祀られている。ねぶたは、未来の平和や繁栄を祈願し、夫婦神と三柱の子が新たな時代の始まりを祝う姿を表している。
2019 マルハニチロ侫武多会 大森彦七と千早姫 手塚 茂樹 南北朝時代。湊川の戦いで南朝側の名将 楠木正成を討ち取った大森彦七は、その後、自分の領地である四国伊予(現在の愛媛県)に戻っていた。ある日、彦七は自らが能を舞うため、仲間の侍らと共に寺の能舞台へ向うが、その道中、舞台鑑賞を望む娘と出会い同行を許す。だが、この娘の正体は楠木家の宝剣『菊水』を取り戻し、父の仇を討つため近づいてきた正成の娘、千早姫であった。増水した川にさしかかり、彦七は娘を背負って渡るが、途中で背後から鬼女の面を被り恐ろしい鬼へと姿を変えた千早姫が襲いかかって来た。争いの中で正体を見破った彦七は、千早姫から誤解を受けている事を知り、真実を語る。楠木の本陣に攻め入ると、既に正成は切腹直前であったが、武士の礼を尽くして最期を見届け感謝された事、そこに残された刀を宝剣と知らず携えていた事を明かしたのである。全てを理解し、涙を流して彦七のもとを去る千早姫。その腕には宝剣『菊水』がしっかりと抱かれていた。?「新 歌舞伎十八番大森彦七」の一場面である。?父を想う娘。娘の気持ちに応えた武将。現代に薄れつつある「思いやる心」を見つめ直し、新時代『令和』に大いなる和の心を重んずる『大和の国日本』を再確認したい。
2018 JRねぶた実行プロジェクト 風神雷神 竹浪 比呂央 風が吹き、雲を呼ぶ。たちまち黒雲たちこめて、稲光が走る。風神と雷神は大地に恵みの雨をもたらす。?農作物に多大な被害を与える暴風を鎮めるため祀られた風神。日照りや水不足で困り果てた時に雨神を呼び、多くの人々に信仰されている雷神。?青森県津軽地方の信仰の対象である岩木山では、毎年旧暦の八月一日までの三日間、豊かな実りの秋を祈願して人々が集団登拝するお山参詣が行われる。参拝者たちは、登山囃子が鳴り響く中「サイギ、サイギ」の掛け声に合わせ登拝する。?岩木山お山参詣を背に天上を舞う風神と雷神。この地球の異常気象を封じ、青森から世界の五穀豊穣を祈り奉るねぶた、ハレの出陣である。
2018 に組・東芝 堀川夜襲 北村 隆 弁慶は武蔵坊弁慶といい、義経に仕え怪力無双の荒法師で名高く弁慶の七つ道具として言い伝えられている道具を束ねて背負っている。?一方、土佐坊は土佐坊昌俊といい源頼朝に臣従し御家人として治承、寿永の乱に参加している。源平時代の武蔵坊弁慶と土佐坊昌俊はどちらも凄腕坊主として名高く、東の弁慶、西の昌俊と呼ばれている。?文治元年、頼朝の弟義経が対立すると、義経を許さず腰越から追い返した後、土佐坊を京都に派遣し堀川の館の義経を打つように命じた。土佐坊は熊野詣と偽って京に宿をとったが、これを怪しんだ弁慶は単身土佐坊の宿所に乗り込む。これが御所桜堀川夜討といわれる場面である。
2018 サンロード青森 甲斐の虎・越後の龍「川中島の決戦」 千葉 作龍 下剋上に明け暮れる戦国の世。関東管領・上杉謙信は弱体化した足利将軍を庇護すべく、正義と秩序の戦いを繰り返していた。謙信は、自らを「毘沙門天」の化身と称し、その戦いは四十九年の生涯に於いて数十回に及んだ。中でも十年余に及ぶ宿敵「甲斐の虎・武田信玄晴信」との五度に渡る川中島での合戦は、熾烈を極め雌雄を決することは無かったという。永禄四年(1561年)秋。四度目の川中島での合戦。鞭声粛々と未明の千曲川を渡る上杉軍。その時、朝靄に煙る武田の陣に、信玄目掛けて只一騎。「越後の龍・上杉謙信輝虎」いざ見参!!
2018 青森山田学園 竜飛の黒神 男鹿の赤神 北村 隆 昔、竜飛岬に荒海のように気性の激しい大男で力持ちな黒神という神様が住んでいた。いつも大きな龍に乗っては大空を自由に駆け回っていた。ある日、空の上から真っ青にすんだ湖のほとりにいる美しい娘にひとめぼれしてしまった。その娘は十和田湖にすんでいる湖の女神であった。女神は男らしい黒神に心惹かれていった。ところがある日、金色の大きな鹿の乗った一人の若い神様が十和田湖にやって来た。若い神様は秋田の男鹿半島に住む赤神であった。女神は優しい赤神にも心惹かれるようになった。黒神は女神を横取りされると思い込んだ。竜飛の黒神と男鹿の赤神はある日、大戸瀬の海岸(今の西津軽郡深浦町)で決闘することになったという。?青森県の民話の一つである。
2018 マルハニチロ侫武多会 大海原の神 金毘羅大権現 手塚 茂樹 海上交通の守護神として、古くより漁師や船員などから、多くの信仰を集める金毘羅大権現。またの名を薬師十二神将『宮比羅』。亥の神でもある。荒れ狂う大波に巻き込まれ、風前のともし火の船乗りが祈る声を耳にした金毘羅大権現は、分身である巨大な黄金色のイノシシと共に荒海に姿を現した。宝剣を豪快に操り起こした神通力と、イノシシの強烈な勢いで怒る荒波を鎮め、ほどなく海は穏やかさを取り戻したのであった。金刀比羅宮(通称 こんぴらさん)に直接お参りに来られない船乗りが、のぼりを立てた樽に酒や賽銭を入れて船から瀬戸内の海に流すと、地元の漁師が拾って代わりに奉納する『流し樽』の風習が今に残り、現代も厚く崇められる金毘羅大権現の姿に、海で繋がる世界が平和であると共に、『猪突猛進』亥のごとく、希望の未来に向かって邁進していく事を祈念するものである。
2018 青森菱友会 岩木川 龍王と武田定清 竹浪 比呂央 青森県中泊町武田地区。十三湖にほどちかい岩木川下流に位置するこの地区は、昭和三十年まで武田村であった。冠する「武田」の名は、その地の治水開拓に尽力した弘前藩士 武田源左衛門定清に由来するものである。時は江戸、弘前藩中興の祖四代藩主信政公の世。新田開発や治水・灌漑工事に力を入れた信政公に、才覚ありと取り立てられたのが武田源左衛門定清である。当時の岩木川は、自然そのままで、駒越川(現在の岩木川)と樋ノ口川(現在の弘前城西濠)の二本に分かれていた。雪解けや大雨の度に氾濫を繰り返し、城下町や下流域を襲い、洪水に水害と猛威を奮い続ける脅威の存在であった。そこで延宝二年(一六七四)、信政公は二十八歳の源左衛門を岩木川穿替工事の惣奉行に命じ、天和二年(一六八二)には樋ノ口川を留め切り、二本の川を一本にして岩木川とすること、また岩木川二十四里(約八十キロメートル)の堤防築造大工事と下流域の治水と新田開発の推進を申し付けた。?濁流となって暴れくる岩木川と対峙し、治水の陣頭指揮をとる源左衛門。すると、どこからともなく龍王が顕現し、その清らかな流れをもって濁流を制すると、しずしずと流れは収まっていった。龍王の加護の元、源左衛門は信政公の期待に応え、岩木川治水工事を見事完遂。岩木川流域の土地と人々の生活を守ったのであった。激しく荒れ狂う岩木川に挑む武田源左衛門定清と彼の者に清流の力を与えんとする龍王の姿である。
2018 ねぶた愛好会 鍾馗 諏訪 慎 唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり)=マラリアにかかり、床に臥せていた。玄宗は高熱の中で夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく虎を連れた大男が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大男に正体を尋ねると、「自分は鍾馗と言い、武徳年間に官吏になるため科挙を受験したが落第し、それを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げて姿を消した。夢からさめると玄宗の病はすっかり癒えていた。玄宗は著名な画家に鍾馗の姿絵を描かせ、以来この鍾馗の肖像は、疾病除け、邪気除けの守り神として伝えられている。中国に伝わる神話である。
2018 青森市役所ねぶた実行委員会 西遊記 「天竺への道」 京野 和鴻 仏教の経典を持ち帰るため、「天竺(現在のインド付近)」を目指した玄奘三蔵一行は、平頂山蓮華洞に辿り着いた際、金角・銀角の兄弟魔王に猪八戒や沙悟浄、さらには三蔵まで捕えられてしまった。孫悟空は銀角の魔力により山で封じられながらも、返事をした者を吸い込む瓢箪を使い、強敵の金角・銀角を倒すことができた。実は、この金角・銀角は、三蔵一行に試練を与えるため、太上老君が遣わした金炉と銀炉の番をしている童子達であった。このねぶたは、仙人の武器である芭蕉扇(ばしょうせん)をもつ金角、紅葫蘆(べにひさご)をもつ銀角と孫悟空との戦いの場面を表したものである。
2018 日立連合ねぶた委員会 九尾の狐  「玉藻前」 北村 蓮明 平安時代末期、鳥羽上皇の寵愛を受けた「玉藻前」という絶世の美女がいた。しかし上皇は次第に病に伏せるようになり、心配していた家臣たちは、陰陽師の安倍康成に依頼し、占わせると玉藻前の仕業と見抜く。「中国では殷の紂王の后、妲己と名のり、周の幽王の后、褒?と名のり、天竺では班足王の后となり、ことごとく王を惑わし国を滅ぼした九尾の狐。そして今、日本に来て玉藻と名のる」安倍が真言を唱えると、玉藻は苦しみもだえ、形相を変え、ついにその正体を表わして、天空に飛び去って行ったのである。九尾の狐はその後、那須野原に追いつめられ絶命したものの、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。しかし、玄翁和尚の霊力でその力は弱められ、「殺生石」として今も立っているという。
2018 東北電力ねぶた愛好会 花和尚 「魯智深」 誕生 京野 和鴻 魯智深は水滸伝に登場する百八人の豪傑の一人。身の丈八尺もある大男で、重さ十貫の鉄棒を振り回す力持ち。全身に花の刺青があることから花和尚と呼ばれていた。義侠心に厚く、困っている人を見ると損得考えず助けずにはいられない、その真っすぐで明るく陽気な性格で皆に愛された好漢である。僧侶になる前の名前は魯達。弱い者や困っている者を見ると放っておけない性分の魯達は、ある日、歌うたいの若い娘と無理やり結婚しようとする肉屋の主人から、その娘親子を助けるが、それが原因で追われる身となってしまう。その後、魯達は助けた親子に再び出会い、その家族から五台山文殊院の智真禅師を紹介され、彼の心の奥にある仏性を見抜いた禅師より魯智深の法名を授けられ出家したという。その生き方から多くの人に愛され信頼された「花和尚 魯智深」のように、私たちも「真っすぐに地域に寄り添い、地域の皆さまと共に歩んで行く」という熱い思いを込めております。
2018 県庁ねぶた実行委員会 托塔天王 晁蓋 大白 我鴻 晁蓋は中国の四大奇書の一つである「水滸伝」の登場人物で梁山泊の二代目首領。ある谷川を境として、東渓村と西渓村の二つの村があり、西渓村では妖怪が出ては人々を困らせていた。ある時、一人の旅の僧が、西渓村の谷に宝塔を建て、妖怪が入り込まないようにしたところ、西渓村には無事が続いたが、今度は、西渓村から逃げた妖怪が東渓村へと集まってしまう。それを聞いて怒ったのが、東渓村の名主、晁蓋。ある夜、独りで谷川を渡って行き、西渓村に建てられた宝塔を担いで帰り、東渓村に据えると妖怪は現れなくなった。このとき以来、晁蓋は托塔天王と呼ばれるようになった。だが、再び西渓村が被害にあうようになり、晁蓋も自分の短慮を反省し、身銭を切り同じ宝塔を西渓村に建てたと言われる人物。
2018 あおもり市民ねぶた実行委員会 入雲龍 公孫勝 北村 麻子 ある者はいわれのない罪で辺境に流され、またある者は理不尽な権力にさからい、追われる身となった。高い志をもちながら、社会からはみだし、梁山泊に集った豪傑たち。その数、百八人。民をしいたげる悪徳官僚たちに、敢然と反旗を翻し活躍した豪傑の中に水滸伝百八星の中の天間星の生まれ変わりであり、序列は梁山泊第四位の好漢「公孫勝」がいた。公孫勝は龍を召喚することもできたので、あだ名は入雲龍と呼ばれ、梁山泊では副軍師を務めていた。公孫勝は世の中を正すため梁山泊に集まり戦いを繰り広げ、たびたび梁山泊軍の危機を救ったという。公孫勝は奇術を学んだ豪傑であり、場面は「風よ吹け!嵐よ怒れ!龍よ出よ!」と公孫勝が剣を抜いて呪文を唱え「応龍」を呼び出し、自在に操る場面である。応龍は、濃緑で金の鱗の翼をもち蝙蝠の翼のようにひろげ宙を舞い、巻き起こす風によって大波を起こし窮地を救った。?【見送り】葛飾北斎と娘「応為」今回制作する「入雲龍 公孫勝」は葛飾北斎が手がけた長野県の宝になっている祭り夜台の龍や鳳凰の天井画の迫力図が公孫勝がモチーフとなっている事から見送りには北斎と共同制作したと言われている北斎と娘の「応為」が天井絵「怒涛」図の「男浪」「女浪」を前に和らぐ親子の姿です。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない」と言ったという。北斎が娘を「オーイ、オーイ」とよんでいたのでそのまま名前を応為とした。
2018 青森市PTA連合会 鍾馗 内山 龍星 中国の玄宗皇帝は病に伏し、ある夜、高熱の中、夢を見た。小鬼が現れ、日頃大切にしている香を盗んだり玉笛を吹いて騒いでは悩ましていた。?玄宗が家臣を呼ぶと、大鬼が現れ小鬼を捕らえ食べ殺した。名を問えば、大鬼は「鍾馗」と名乗り「天下の為、悪鬼を退治する誓いを立てた」と申し述べ、消え去った。?夢から覚めると玄宗皇帝の病はすっかり回復していた。それを当世第一の画家道玄に伝え、夢に見た鍾馗の姿絵を描かせた。以来、この姿絵を魔除けや疫病からの守り神としたという。
2018 消防第二分団ねぶた会・アサヒビール 遊侠  石川五右衛門 立田 龍宝 天下御免の大泥棒石川五右衛門は、安土桃山時代に出没した盗賊の首長であり、都市部を中心に荒らしまわり、当時の権力者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で煎り殺されたという話が有名である。江戸時代には伝説の大泥棒として庶民に浸透し、石川五右衛門が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演目として創作され、次第に義賊として扱われるようになった。また権力者の豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えた。ねぶたは石川五右衛門が城(大阪城・名古屋城)に忍び込み金の鯱を盗み、担ぎながら右手に刀を、左手に煙管を持ち余裕な表情で龍と対峙する場面である。「強きをくじき弱きを助ける」男伊達石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と唱えている場面である。
2018 私たちのねぶた自主製作実行委員会 平治の乱 平重盛と悪源太義平 私たち一同 保元の乱では共に組んだ源義朝と平清盛だが、義朝は恩賞の差に不満を抱いていた。一方、後白河法皇に取り入れられ、勢力を伸ばす清盛。熊野詣に出かけ、京都を留守にした1159年(平治元年)12月。義朝は法皇の御所『東三条殿』を焼き討ちにし、法皇を幽閉。こうして平治の乱が引き起こされた。乱を知った清盛は急いで京に引き返し、法皇を奪還。清盛は兵を挙げ、義朝は落ち延びた先の尾張で暗殺された。この乱により、源氏は壊滅的な被害を被り、平氏政権が誕生した。?この乱に於ける戦いの白眉は『紫宸殿の戦い』と呼ばれるものである。清盛の長男、重盛が平安京大内裏の待賢門に五百騎で攻め入ったのだが、それを義朝の長男、弱冠19歳の義平が手勢わずか17騎で迎え撃ち、重盛軍を散々に蹴散らした。その時、紫宸殿前庭で一騎打ちした義平は、重盛の首を掻く寸前まで追い詰めたという。
2018 NTTグループねぶた 西王母の祝福 北村 春一 「西王母」とは、多くの中国神話に登場し、仙女の世界の女王的存在として長く民間で信仰された女神である。西の彼方にある仙郷・崑崙山に住むとされ、仙桃を管理していた。時は周王朝、五代目の皇帝「穆王」は大陸全土を巡って治世に努め、天下は富み栄え、威光は天下に充ち満ちている。皇帝の威徳によって咲いたという三千年に一度開花結実する仙界の桃の実は、不老長寿の妙薬である。治まる御代に感応した西王母は仙桃を献上するため降臨し、天下の太平を祝福した。ねぶたは、治世祝福の宴の席、鳳凰や仙女が飛び交う中、美しく舞う西王母と聖君穆王の姿を表している。
2018 公益社団法人 青森青年会議所 永久の安寧 ~善知鳥・安潟~ 立田 龍宝 青森市安方にある善知鳥神社。この神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神(あまてらすおおみかみ)の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。この善知鳥神社で大切な儀式の時に踊られている舞が二つ存在する。それは「善知鳥舞」と「安潟舞」である。「善知鳥舞」は青森の永久の安寧を願い、うとう鳥の親子の情愛を表現し創作したもの。そして「安潟舞」も青森の永久の安寧・繁栄を願ったもの。どちらもまちの安泰を祈った踊りである。約四〇〇年前の江戸時代に港町として始まった青森は、廃藩置県後の明治三十一年(一八九八年)四月一日に青森町から青森市へと変わり、今年で一二〇年目の節目となる。このねぶたは青森市がこれからも発展し続けること、そしてまちに住む人々がお互いを支え合い絆を大切にしていくこと、この二つが不死鳥の如く永久に続くことへの願いを天照大御神と宗像三女神に込めたものであり、ねぶたを通じて多くの人々に青森への誇りをもってもらいたいと願っている。
2018 青森県板金工業組合 おしら様 北村 蓮明 私が子供の頃、本家におしら様が祀られていた。祖母がおしら様を両手に持ち、痛いところをシャンシャンとたたいて直してあげていたものである。おしら様は、東北地方で信仰されている家の神で、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。ご神体は桑の木で作った一尺程の棒の先に、男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。男と女、馬と娘、馬と男など二体一対で祀られていることが多く、特に青森県、岩手県で濃厚に残っている。昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知りすがりついて泣いていると、父はさらに怒り、馬の首をはねてしまった。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空に昇り、おしら様になったという。
2018 日本通運(株)青森支店ねぶた実行委員会 火焔の蝦夷 阿弖流為と鬼剣舞 林 広海 東北の歴史とは中央政府からの理不尽な侵略と敗北の歴史である。その歴史において、東北まほろばの地を守ろうとした英雄たちがいる。名を馳せるところでは、源義経であり、安倍貞任であり、阿弖流為である。彼らは和の心を持って戦ってきたが、国史の名の下に敗者となり、非業の最期を遂げた者たちである。鬼剣舞という民俗芸能が、今も岩手県北上市周辺に伝わっている。刀を振りかざし、五色の忿怒の形相の鬼面をつけ、勇壮に舞い踊る。その鬼面には鬼ながら角はなく、仏教の五大明王を表している。この踊りは、蝦夷の地と呼ばれた東北の地で御霊となって亡くなった人々の鎮魂の儀式とも言われている。つまり、鬼剣舞の鬼とは仏であり、そう先の源義経であり、安倍貞任であり、阿弖流為である。彼らは、強力な中央政府に対して、まさしく「鬼」となって戦い、東北みちのくの地で散っていったのである。このねぶたは、今でも心の中に生き続ける英雄たちの鬼面をかざす阿弖流為の勇姿に東北蝦夷のみなぎる魂を表現したものである。
2018 ヤマト運輸ねぶた実行委員会 白浪五人男 北村 隆 盗賊を主人公にした世話物のことを、特に「白浪物」と呼んでいる。主人公は盗賊だが大悪党というよりは義理・人情の絡められた人物である。弁天小僧菊之助と南郷力丸は、共に大盗賊日本駄右衛門の子分。弁天小僧は美しい武家娘に、南郷はその供侍に姿を変えて鎌倉の浜松屋を訪れわざと万引きをしたように見せかける。その二人の正体を見破ったのはすでに浜松屋に入っていた侍姿の駄右衛門。一連の万引き騒動は、駄右衛門を浜松屋に信用させるよう一味が仕組んだ芝居だったのだ。この三人に、忠信利平と赤星十三郎を加えた五人の盗賊たち(白浪五人男)は、後日浜松屋に押し入るが、捕手に追われて稲瀬川に勢揃いし名乗りをあげる。歌舞伎では「志ら浪」と書いた番傘に手ぬぐいを肩に名乗りを上げ、素性を明らかにする名場面である。
2018 パナソニックねぶた会 元禄 水滸伝 北村 蓮明 江戸時代も元禄の頃になると、平和が続き、農業の発展により、商品作物を運ぶため、町や交通も発達した。人々の生活は次第に派手になり、町人たちを中心に、浮世草子、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵などが栄え、自由に生き生きと活気にあふれていた。都市には、大商人が生まれ、富を貯え、次第に力を強めていった。中には「地獄の沙汰も金次第」と吹聴する悪徳商人もいて・・・。ねぶたは、義侠心あふれる若武者が横暴を極める悪党を許せず、地獄に乗り込み、不当な裁断をする「閻魔」を懲らしめに行く場面。混迷続く、この世界。勇気を持って、立ち向かっていきたいと願うものである。
2018 青森自衛隊ねぶた協賛会 児雷也 有賀 義弘 肥後国で栄えた豪族の遺児である尾形周馬弘行は、越後妙香山に棲む蝦蟇の精霊・仙素道人から蝦蟇の妖術を授かり児雷也を名乗る。のちに家再興のため各地で妖怪や悪人を懲らしめるなど活躍し、やがて管領家から宥文を受け悪人を伏滅する志を固める。蛞蝓の妖術を操る美女・綱手を妻とし、蛇を操る宿敵の悪賊・大蛇丸と蝦蟇・蛇・蛞蝓の三すくみの妖術乱闘を繰り広げる。児雷也豪傑譚は、歌舞伎や映画、講談、浮世絵から漫画に至るまでさまざまな媒体に登場し、また大きな影響を与えつづける永遠のヒーロー・児雷也の活躍を複雑かつ怪奇に絡み合う筋立と、遠大かつ雄渾なスケールの中に描き出している。このねぶたは、飛行術を駆使し、宿敵・大蛇丸と戦う児雷也の勇姿をねぶたに現したものである。
2017 青森菱友会 七戸立 竹浪 比呂央 陸奥国の民は遥か昔より馬を尊び、馬と生活を共にしてきた。なかでも七戸(青森県七戸町)は今も昔も名馬の産地である。七戸立とは七戸産の馬のことを指す。この呼称を一躍世に知らしめたのは、かの有名な「宇治川の先陣争い」で梶原源太景季を負かし、佐々木四郎高綱に先陣の功をもたらした天下一の名馬、生?。元より源頼朝の愛馬で、気性が荒く、馬でも人でも噛みついて傍に寄せないことからこの名が付けられた。よく肥え逞しく大きな体躯を持ち、轟轟と荒れ狂う宇治川をものともせず一直線に渡り切ったと瞬く間に名が知れ渡ると、武士らは続々と七戸立を求めた。七戸に住まう人々は更に、生?のごとき野性味あふれる悍馬の調教に励み、いまなお数多くの名馬を輩出し続けている。良馬産出祈願を以て、馬頭観音の御加護を得た七戸立調馬図をここに顕す。
2017 あおもり市民ねぶた実行委員会 紅葉狩 北村 麻子 紅葉が美しいとある山中、高貴な風情の女が侍女を連れて紅葉を愛でようと宴を催していました。その酒席に鹿狩りの途中の平維茂の一行が通りかかります。維茂は道を避けようとするが、誘われるまま、宴に加わります。酒を勧められ、つい気を許した維茂は酔いつぶれ眠ってしまいます。ちょうどその頃、八幡大菩薩の眷属、武内の神が信濃国戸隠山への道を急いでいました。維茂を籠絡した女は戸隠山の鬼神だったのです。武内の神は維茂の夢に現れてそのことを告げ、八幡大菩薩からの下された神剣を維茂に授けました。さて、夢から覚めた維茂の前には、鬼女が姿を現わし襲いかかってきます。維茂は勇敢に立ち向かい、激しい戦いの末にみごと神剣で鬼女を退治しました。
2017 日本通運(株)青森支店ねぶた実行委員会 斉天大聖孫悟空 林 広海 孫悟空は中国の古典小説「西遊記」の主人公である。生きとし生ける物の生死に悲観し、不老不死を願い仙術を身につけて行く孫悟空は自らを斉天大聖と号し天界で大暴れするが、乱暴が過ぎて、お釈迦様に五行山の岩の下に閉じ込められてしまう。それから五百年後。天竺にありがたいお経を取りに行く旅の途中の三蔵法師に助けられ、孫悟空は三蔵の弟子となり、取経の旅のお供をすることとなる。途中、豚の化物 猪八戒や河童の沙悟浄らを供に加え、一行は遥か遠く天竺を目指すが、旅の先には様々な困難や恐ろしい妖怪たちが立ちはだかる。一行はそれらを次々に乗り越え、やっと無事天竺に辿りつくのである。ねぶたはその旅の途中、返事をすると吸い込まれてしまう不思議なひょうたんを持つ妖怪金角・銀角大王と孫悟空が格闘する一場面である。
2017 県庁ねぶた実行委員会 花和尚 魯智深 大白 我鴻 魯智深は水滸伝の登場人物で、天?星のひとつ天孤星が生まれ変わった好漢である。もとは経略府の提轄で姓を魯、名は達といった。酒楼で出会った憐れな歌唄いの親娘を助けるために鄭という肉屋を撲り殺してしまったことから逃亡し、五台山の文殊院に出家し僧名を“智深”と名づけられた。しかし、出家はしてみたものの、魯智深は僧の暮らしになじめなかった。退屈した魯智深が山門を出て参道坂をどんどん降りて行くと、麓には門前町があり、酒屋もあれば肉屋もある。魯智深は飲酒の戒を破り、むさぼる如くがぶがぶ飲んで大酔のまま帰山し、山門を守護する文殊院の至宝たる大きな仁王像を怪力にまかせて引きずり下ろし、叩き壊してしまった。智真長老もこれには我慢がならず、大暴れを起こしてはもうかばう事もできず、もうここに置く事はできないと告げた。そして魯智深は一人悄然と五台山をあとにした。
2017 東北電力ねぶた愛好会 三国志演義「美髯公 関羽 参上」 京野 和鴻 百八四年に起きた黄巾の乱を契機に漢の世は乱れ、董卓・呂布・曹操・袁紹ら群雄の攻防が行われた。董卓軍の呂布は、戦いを挑む諸侯の武将たちを次々と討ち倒し、名馬 赤兎馬に跨り、更に攻め込んで行く。反董卓軍が応戦するも、その勢いに歯が立たない中、呂布を大喝して加勢した張飛との打ち合いは、その後、幾度となく続くも一向に勝負はつかない。そこでついに二人の前に現れたのが武将 関羽。身の丈は九尺もあり、長く美しい立派な髯をたくわえ、重さ八十二斤の「冷?鋸」という名の青龍偃月刀を操る戦国の美髯公 関羽 参上の場面を表したものです。私たちも「関羽のように力強く、これからも東北の復興と発展に寄り添い続ける」という強い思いを込めて、記念すべき五十回目の出陣をいたします。
2017 ヤマト運輸ねぶた実行委員会 赤沼伝説 北村 隆 藤崎町矢沢八幡宮の裏にあった「赤沼」とそこから6km離れた常盤村福舘の田んぼの真ん中にある「赤沼」とは底がずっと繋がっていたと言われている。むかし、坂上田村麻呂軍は藤崎町矢沢の森のあたりで突然蝦夷の棟梁・高丸に襲われた。田村麻呂は強弓をはなち、射殺したが今度は高丸の亡霊が襲い掛かった。田村麻呂は太刀をぬき斬りつけると、亡霊はそばの沼へ落ちていった。沼はみるみる赤い血で染まったという。それからこの沼を『赤沼』と呼ぶようになったという。田村麻呂は亡骸を近くの森に葬り、その上にお堂を建て矢を御神体として祀ったことから「矢沢」と呼ぶようになったという。この赤沼にはいつの頃からか大きな蟹が沼の主として棲むようになったという。この大きな蟹は高丸の化身と噂されている。そして二つの沼を行ったり来たりしていたという。坂上田村麻呂と赤沼の蟹の伝説である。今も常盤村福舘の田んぼの真ん中には「赤沼」とそばには小さな祠が存在している。
2017 NTTグループねぶた 妖術師 滝夜叉姫 北村 春一 平安時代中期、天慶の乱にて無念の最期をとげた平将門の娘、五月姫は怨念を募らせ貴船の社に祈願をかけ、その満願の日、貴船の神より妖術を授かり、名を滝夜叉姫と改めた。その後、がしゃ髑髏など数多の手下を駆り集め、天下に災いをなすようになった。そのため朝廷より勅命を受けた大宅太郎光圀は、陰陽の術を持って立ち向かい壮絶な戦いの末、滝夜叉姫を成敗した。天下に災いを齎した滝夜叉姫であったが、死の間際には改心し平将門のもとに昇天したという。ねぶたは滝夜叉姫が妖艶な遊女の姿で現れ光圀を惑わそうとするが見破られ、妖術と陰陽術の激しい戦いとなる場面である。
2017 JRねぶた実行プロジェクト 剣の護法 竹浪 比呂央 信貴山縁起絵巻延喜加持の巻より?平安の世、延喜の帝は重い病に苦しんでいた。高僧たちが祈祷しても、癒える気配がない。そんな折、大和(奈良県)の信貴山の僧で、強大な法力で不思議な術を行う命蓮に白羽の矢が立った。勅使が参内を要求したが、ここにいても治せるので決して山は下りないと命蓮。どうすれば帝の病が癒えたと分かるのかと尋ねると、「剣の護法という童子を遣わすので、夢や幻にでもその姿が見えたらそれが証拠とご承知ください。剣を編んで衣にしている護法童子です。」と答えた。三日ほど後、夢現にいた帝はきらきらしたものを見た。これが剣の護法だ、と思った矢先、気分は爽快、苦しさもなくなり、すっかり健康になった。?護国の聖具をまとい、悪鬼に対峙する護法童子。輪宝を車輪のごとく回転させるその勇姿に、安全安心な交通網の発展を願い奉る。
2017 青森市役所ねぶた実行委員会 修羅場 阿修羅と帝釈天 京野 和鴻 インド神話に、正義の神「阿修羅」と力の神「帝釈天」という神がおり、あるとき、阿修羅の娘シャチーを見て気に入った帝釈天は、力尽くで彼女を奪い、自分の宮殿に連れ去ってしまった。このことが発端となり、娘を奪われた阿修羅は怒り、復讐に燃える悪鬼となって幾度となく帝釈天に戦いを挑んだ。このねぶたは、壮絶な戦いを繰り広げた場所、「修羅場」を再現したものである。
2017 青森市PTA連合会 仁田四郎 神霊を見る 内山 龍星 源頼朝公は富士の巻狩りの際、家臣の仁田四郎忠常に富士の人穴検索を命じた。忠常は家来と共に人穴に入るが、中は狭くなかなか進むことができない。さらに真っ暗の中、足を濡らし歩いていくと、やがて大河の流れる広い場所へと辿り着いた。大河は激流が逆巻き渡ることができず、対岸の岩頭に光が輝くと一緒に来た家来が急死し、そこへ官女の姿が現れた。「ここは人間の来るところではない。誤って来るものは皆、命を落とす。お前もまぬがれない。」と言われ、恐れおののいた忠常だが官女の教えに従い刀を水中に投げ入れて帰ることができた。仁田四郎忠常が富士の人穴で見た官女と思わしき姿は、富士の御神体「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の神霊であった。
2017 青森自衛隊ねぶた協賛会 鹿島神と要石 有賀 義弘 古くから地震は地中の大きな鯰が荒れ騒いでいるせいだと信じられてきました。鹿島神宮にある要石は大神の御座、磐座とも伝えられる霊石で、大神たちはこの要石を地中に深く差し込み大鯰の頭を押さえ地震を鎮めているといわれています。また、鹿島神宮の主神として祀られていることから鹿島神とも呼ばれるタケミカズチは、日本神話にみえる神で、「雷神、武神、刀剣の神」近年では、スポーツの神として武道上達や勝利・成功のご利益があるとされています。我々、青森駐屯地の隊員も地震鯰を押さえ込む鹿島神のように日本の平和と国民皆様を全力で守れる様に日本一精強な駐屯地を目指し、日々各種任務や訓練に邁進する思いを祈念するものであります。
2017 マルハニチロ侫武多会 岩見重太郎 狒々退治 手塚 茂樹 岩見重太郎は、父の仇討ちのため旅に出たが道中負傷し、通りがかりの村人の家で介抱された。数日で回復し、村人も喜んだが、どこか笑顔に陰りがある。問うと、山奥の神社の神様が、毎年若く美しい娘の家に白羽の矢を立て、そこに住む娘は箱に入れて捧げねばならないという。もし背けば、村には大きな災いが起きる。今年はこの家に矢が立ったので、準備の最中だというのだ。重太郎は「神が人を犠牲にするものか!」と怒り、『神様』の正体を暴くべく、自らが娘の着物を被って箱に入った。村人たちはその箱を神社へと運び込む。静寂な時が過ぎる中、フクロウの声と共に怪しい気配と異様なまでの生臭さを感じ取った。そっと蓋が開いた次の瞬間、被っていた着物が勢いよく剥ぎ取られた。すかさず飛び出た重太郎の眼には、赤ら顔で鬼のように巨大な狒々が映った。奇声を上げながら襲い掛かってくる狒々に、重太郎は得意の剣術で立ち向かった。一進一退、長い激闘だった。翌朝、狒々退治の知らせを聞いた村人たちは歓喜し、何度も何度も礼を述べていた。その声を背に、重太郎は本懐を遂げるべく、旅路を急ぐのであった。大坂夏の陣、豊臣軍で真田幸村らと共に戦い名を馳せた武将、薄田隼人正兼相若かりし頃の武勇談である。未知なるものへ恐れず挑み、巨悪を退治した重太郎の姿に、争いや災いの無い平和な世が永く続くことを祈り願う。
2017 サンロード青森 源頼光・足柄山中に公時と出会う 千葉 作龍 平安時代源頼光は、上総の任を果たし京に戻る途中相模国・足柄山中にさしかかったところ、俄かな轟音と共に現れた若者と出会う。若者は、名を「怪童丸」と云い、龍神と山姥の間に生まれ幼少の頃から山中の動物たちを従え、熊と相撲を取るなど怪力の持ち主であった。頼光は、怪童丸を京に連れ帰り、「坂田公時」と名を与え家来とした。やがて、「公時」は「頼光四天王」の一人として数々の鬼神を退治するなど、武勇を挙げ童話「金太郎」のモデルとして現在も語り継がれる英雄である。このねぶたの場面は、源頼光と公時が、足柄山中でまさに出会った場面である。
2017 パナソニックねぶた会 酋長コシャマインの反乱 北村 蓮明 その昔、北の大地を舞台に繰り広げられた、民族と民族の激しい抗争があった。美しい大自然に抱かれながら、のんびりと楽しく生活していたアイヌ民族にとり、そこはまさに自由の天地であった。大らかに生きていたアイヌが本州から渡来した和人を容認したのは、訪れる者を拒まぬという民族的な開放性であった。しかし、いつしか勢力を増し始めた和人たちの横暴さが目立つようになり、アイヌたちの反感は次第に高まっていった。1456年、和人の鍛冶屋がアイヌの少年を刺殺したことが発端となり、忍耐を重ねていたアイヌたちの怒りが爆発。酋長コシャマインをリーダーとして、和人に戦いを挑むことになる。それは、アイヌモシリ(人間の大地)から、和人を追放するための戦いであった。
2017 私たちのねぶた自主製作実行委員会 天草四郎 昇天 私たち一同 関ヶ原の合戦後、九州 天草・島原の農民たちは領主からの圧政に強く不満を感じていた。時を同じくして禁教令の下、キリシタンたちも厳しく弾圧されていた。結果、3万7千人に上る農民とキリシタンが、領主と幕府を倒すため結集し、寛永14年(1637年)10月、島原・天草一揆が起こった。?その一揆集団をまとめるため、総大将として立てられたのが16才の少年 天草四郎である。四郎は難病を治したり、海上を歩く等数々の奇跡を起こし、人々から『キリストの生まれ変わり』『神の使者』と考えられていた。?一揆勢は島原半島にある原城に籠城して幕府軍と戦い、初めは優勢だった。しかし戦が長引くことによる籠城疲れ、仲間割れ、また幕府軍による兵糧攻めにも遭い、次第にその勢力を失っていった。?そして寛永15年2月28日、幕府軍12万4千人による総攻撃を受け、ついに原城は落城、一揆勢は全滅、天草四郎も本丸で討ち取られたとされる。?場面は、原城決戦の最後、天草四郎が仲間たちの魂の救済を願い、祈りを捧げる様子を表したものである。
2017 に組・東芝 空飛ぶ権現様と火消 北村 隆 獅子舞の頭をもっと大きくし、頭の後ろに大きな布をつけその中に大人の人が何人か入って、おおきな口をパクパクさせながら練り歩くのが権現様である。権現様は人々を病気や災難から救ってくれる神様である。?むかし、上北地方横浜の吹越村のお宮に、大きくてりっぱな権現様が祀られていた。この吹越の権現様は、火事から村を守ってくれるという話であった。火事があると、この権現様は空を飛んで火事場へ行き、火を消し止めるという。そして吹越の権現様が火事を消しているところを見たという人が何人もいたという。横浜に伝わる空飛ぶ権現様の話である。?火事の多かった江戸時代中期に町火消しが制度化され江戸の火消しの中核を担うようになっていった。町火消しの伊達男は羨望の的であった。それが現代の消防の始まりである。?すべてを焼き尽くしてしまう火事は今も昔も大変な災難であることに変わりはありません。糸魚川大規模火災にあわれた皆様には心からお見舞い申し上げます。
2017 青森山田学園 金神長五郎 仁王と相撲をとる 北村 隆 長五郎は武蔵国の生まれで、ある時、小鳥を取りに山中に入ると廃墟となった寺があったので覗いてみたところ、何とその中には仁王や金剛神といった、神仏の姿をした妖怪たちが蠢いていた。?そこで長五郎は、やにわに着物を脱ぎ捨てて妖怪の中に飛び込み金剛神の妖怪へと組み付き、これを投げ飛ばしたところ、それに恐れをなしたのか、残る妖怪ともども姿を消してしまった。?これ以降、長五郎は「金神」という渾名をつけられたという。
2017 青森県板金工業組合 青峰山の牛鬼 北村 蓮明 香川の五色台の青峰に、その昔、牛鬼という怪物が棲んでいた。頭の上に牛のような角が生え、耳まで裂けた口には大きな牙と鋭い歯が並び、こうもりのような羽根を広げて自由に飛び回る奇怪な化け物で、人や家畜を襲い村人たちを苦しめていた。牛鬼退治を依頼された弓の名人、山田蔵人高清は山中をくまなく探し回ったが発見できない。困り果て、青峰の名刹根香寺に詣で、ご本尊の千手観音に祈願を続けると、満願の日の暁に、ついに牛鬼が現われ、高清に襲いかかってきた。これこそ観音さまのお導きと、念じながら弓を射ると矢は見事に急所に命中、牛鬼を退治することができたのである。(四国巡礼第八十二番札所、青峰山根香寺に伝わる伝説)
2017 ねぶた愛好会 三国志 諏訪 慎 中国、三国時代の豪勇、張飛は、桃園の誓い以来、関羽とともに劉備のもとでたたかう。馬超は漢中の張魯のもとに身を寄せていた。その頃、蜀の劉璋は劉備に攻められ、張魯に援軍を求めてきた。馬超が蜀の援軍として名乗りをあげ、戦場に駆けつけた。馬超は「この馬超に恐れをなしたか」とののしった。その挑発に、張飛はがまんできず飛び出し、とうとう一騎打ちになった。二人の戦いは、まさに雲を呼び風を起こす竜虎の戦いであった。両軍はかたずをのんでなりゆきを見守ったが、二人の勝負はいっこうにつかず、日が沈んでも勝負はつかなかった。張飛は「暗くては一騎打ちもできまい。この続きは明日まであずけた。」と言うが、馬超はかがり火をたかせて、あくまでも勝負をいどむ。かがり火の中で二人は戦いつづけた。とうとう劉備が中に入り、戦いは引き分けに終わった。このねぶたは、三国志勇者たちの血闘の名場面である。
2017 公益社団法人 青森青年会議所 忠魂勇往 毛受勝照 立田 龍宝 毛受勝照は、安土桃山時代織田信長の筆頭家老、柴田勝家に仕えていた武将である。信長が本能寺の変で憤死したのち、柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、信長の跡を継いで天下を取るべく賤ヶ岳にて合戦となった。最初は柴田陣営が優勢に戦を運んでいたが、羽柴陣営が徐々に盛り返し、次第に柴田陣営の敗色が濃厚になると、大将である勝家は形勢逆転の一手として自らが軍を率いて最後の決戦を挑もうとした。その時、毛受勝照は主君の柴田勝家に対し「一旦退いて再び陣を立て直しましょう」と進言するやいなや、勝家軍の象徴である金色の馬印(騎標)を背負って自らが楯となり殿を務めて敵を引き付け、自身の討ち死にと引き代えに見事勝家を戦場から脱出させた。この主君を想う行動は柴田陣営、羽柴陣営両軍からの称賛を受けた。運行五十回目という節目となる今年度は、先人たちの築き上げてきた誇りと伝統を胸に、率先して行動する英知と勇気と情熱に溢れた若人が、まちのため、ひとのためにどんな困難をも恐れず突き進んで行くという断固たる決意を込めたねぶたである。
2017 日立連合ねぶた委員会 吹越村の火消し権現 北村 蓮明 昔、上北地方の吹越村のお宮に、大きな立派な権現さまが祭られていた。火事があると空を飛んで火事場へ行き、大きな布を羽ばたかせて、火を消し止めるのだという。ある祭りの夜、田名部の三郎はお宮から、こっそり権現さまを盗み出していた。高い値で売りさばこうと小舟に積み込み函館を目指していると、突然空がまっ暗になり、大粒の雨が音をたてて降り始め海は大荒れ。慌てた三郎は権現さまの布の端をぎっしりつかんで離さない。権現さまは三郎をぶら下げたまま、ものすごい勢いで嵐の空へ舞い上がったのである。横浜村の近くへ来ると大きく宙返りをし、海のそばの大きな岩にふわりと下りると疲れた体を休めるように動かなくなった。この時から吹越の権現さまは横浜村の八幡様に納められ、この村を火事から守っているという。権現さまは現在も横浜町の八幡神社に祀られている。
2017 消防第二分団ねぶた会・アサヒビール 布引の滝 悪源太義平 立田 龍宝 源 義平は源 頼朝の兄で、武名の誉れの高い豪勇であることから「鎌倉の悪源太」と呼ばれる。騙し討ちされた父義朝の無念をはらすため、京の都で平 清盛の命を狙うが、逆に捕らえられ介錯人の難波恒房を睨むと「雷になって汝をけり殺さん」と言い残し斬首されてしまうのである。仁安二年七月七日、清盛一行が摂津国の名瀑布引の滝に詣でたところ、一天にわかに曇り、雷神となった悪源太義平が恒房を打ち殺しに現れる。京の都にも六波羅にも雷が落ち、多くの人々が命を失い、清盛は大般若経を僧に読経させ、義平の霊を鎮魂したのである。
2016 青森菱友会 箭根森八幡 竹浪 比呂央 時は平安。本州の北の果て、いまの青森県下北半島は艮の鬼門に当たり、悪鬼が住みついては害をなしていた。人々は困り果て、遠く京の都まで行っては、名のある武士に鬼退治を頼み込んだ。その願いに応えたのは、武勇の誉れ高き源頼義。兵士たちを従え、東北へと進軍する。鬼の住まう佐井(青森県佐井村)へやって来ると、頼義は海水で禊し、一心不乱に武運の神である八幡神へ加護を祈った。祈り続けること七日目。にわかに暗雲たちこめ、波は逆立ち翻り、突風が吹き荒ぶ。そこへ忽然と現れ襲いかかる悪鬼。身の毛もよだつ恐ろしい鬼の形相に苦戦を強いられる。と、その時。一軍の前に顕れたるは八幡神。青龍に護り導かれ、神馬にまたがると、神通力を宿した弓矢をすっと空へ引き放つ。するやいなや、邪気を祓う音が海に鳴り響き、雲を蹴散らすと、悪鬼を射貫いた。轟音をあげ落ち来る悪鬼。八幡神の助けを得、鬼退治をすること叶った。頼義はこれに感謝し、神の箭根石(矢じり)がある場所に八幡神を祀ることとした。これが現在も佐井村に鎮座まします箭根森八幡宮である。神馬にまたがり、神変の弓矢を引き放ちて、まさにいま悪鬼を射落とす武神・八幡神の姿をねぶたに顕現す。
2016 サンロード青森 本能寺炎上 「森蘭丸と安田作兵衛」 千葉 作龍 将軍足利義昭の代。天正十年(1582)六月二日未明。「敵は本能寺にあり!」織田信長の家臣、明智光秀による突然の謀反であった。明智三羽鴉の一人安田作兵衛は、信長目掛け攻め入るが、信長の側近である森蘭丸の槍に阻まれる。(ねぶたの場面)?「もはやこれまで」と信長は寺に火を放ち自害して果てた。時に、信長歳四十九、天下一統を目前にしての最期であった。?「人間五十年下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を受け滅せぬ者のあるべきか・・・・・。」
2016 JRねぶた実行プロジェクト 蝦夷ヶ島 と九郎義経 竹浪 比呂央 寛政二年(一七九〇)、松前藩士にして「松前応挙」と称された画人、蠣崎波響によって描かれた傑作『列像』極彩色の豪華絢爛な衣装に身を包み、こちらをねめつけるような視線を送る十二人のアイヌの有力者・たち。精緻に描かれた、異国や別世界を思わせる姿形と気迫のこもった面持ちは、見る者に畏怖の念を抱かせ、目を奪われずにはいられない。このねぶたは、昨秋、北海道博物館にて好評を博した列像の特別展から着想を得たものである。?源九郎義経は奥州平泉で自刃せず、生き延びて北を目指したと密やかに伝えられる。津軽半島からさらに北へ、北へ。海を渡り、広漠たる大地、蝦夷地(北海道)へと辿り着く。そこに生きるは力強く、生命力に満ち溢れたアイヌたち。水草を求めて水辺へやってきた鹿を素手で仕留め、日々の糧とする。厳しい自然に立ち向かい、時に共存しながらたくましく生き抜くアイヌの姿と、それを目の当たりにして己の天命を全うしようと固く決意する義経であった。?北海道新幹線の開通を祝し、更なる交通網の発達と沿線の繁栄を祈願するものである。
2016 公益社団法人 青森青年会議所 蜀漢 報恩鬼神 立田 龍宝 中国三国時代、蜀漢の武将である関羽は義に篤く、学問に長け、武勇に秀でており、身丈九尺、顎鬚二尺、鳳凰の眼に蚕のような眉と勇壮な人物であり、重さ八十二斤ある青龍偃月刀を自在に操ることもできた。かつて、劉備が曹操の攻撃を受け、袁紹を頼って落ちのびたとき、関羽は命ぜられていた下?城を守るために捕らえられたが、曹操の手厚い礼遇を受けた。関羽は曹操軍の客将として出陣し、袁紹軍の将の顔良を討ち曹操への恩に報いた後、劉備のもとへ帰り、以後数々の戦いや政務で活躍し劉備のために尽力した。最後は捕えられ処刑されてしまうが、劉備は関羽のために弔い合戦をし「義」を果たそうとするのである。?このような強い結びつきは、義兄弟の契りを結んだ桃園の誓いにあり、そこでは「心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん」と誓いを立てている。「義」を果たそうとする関羽の行動は、志を同じうするものが集い、ひとのため地域のために行動し、明るい豊かな社会を実現しようとする青年会議所会員と同じである。?創立六十五周年という新たな節目となる今年度、改めて初心を忘れず活動し、地域社会の更なる発展へと繋げて欲しいとの願いを込めたねぶたである。
2016 NTTグループねぶた 天岩戸伝説 北村 春一 弟の荒ぶる神、須佐之男命の乱暴ぶりに耐えかね、太陽の神である天照大御神がその身を隠し、天上天下の光は消え災いに満ちた闇夜の世界が訪れた。八百万の神々は天安河原に集まり、知恵の神、思金神の名案により天照大御神を天岩戸から呼び戻す作戦を立てることになる。天細女命が踊り出すと神々は大笑いし、何事かと岩戸を少し開け外の様子を窺うと、布刀玉命が八咫鏡を差出す。鏡に写る目映い光が自分の姿とも知らず身を乗り出した時、力自慢の天手力男神が入り口を塞いでいた岩の戸を投げ飛ばした。こうして世界は光を取り戻し平和が訪れたのである。神話の中で描かれている「天岩戸伝説」は、謎が多く諸説あるが、世の平和を望む人々の思いは古代も現代も同じである。
2016 青森山田学園 樊城の戦い 北村 隆 周倉は三国志に登場する武将で元黄巾賊の大将で同僚の悲元紹らと臥牛山で山賊をしていたが、関羽の戦いぶりに惚れ込み側近として仕える。?徳は于禁の先鋒として樊城におもむいた。?徳は関平と打ち合いになったが勝負がつかず両者、陣に引き返す。「樊城の戦い」である。周倉は于禁率いる七軍を水計で壊滅させ、未だ抵抗し舟を奪って逃げる?徳を船をぶつけて転覆させ自身も水中に飛び込み格闘の末捕えることに成功する。?関羽に忠義をつくし従った武将の勇姿である。
2016 青森市役所ねぶた実行委員会 項羽の馬投げ 外崎 白鴻 項羽は、秦の始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が起こると 24歳で挙兵し、劉邦と共に秦の都を占拠し秦を滅亡させた英雄である。項羽はこの合戦において何万という秦兵の敵陣の中に馬を頭上高く持ち上げ、敵陣に投げ込み威嚇することにより、敵兵の志気を挫き勝利した逸話がある。このねぶたは、項羽が怪力をもって敵陣に馬を投げ飛ばした勇猛さを表したものである。
2016 ねぶた愛好会 素戔嗚尊八岐大蛇退治 諏訪 慎 高天原で暴れすぎて追放された、孤独な若い素戔嗚尊が出雲の国の肥の河の上流に向かっていくと、一軒の家があり、おじいさんとおばあさんが美しい娘を中に置き、泣き悲しんでいました。?尊は「お前たちは何をそのように悲しんでいるのか」と尋ねると、おじいさんは「私には8人の娘がいましたが、八岐大蛇が毎年来て、生け贄として一人づつ喰ってしまいました。最後にのこったのが、この奇稲田姫です。今年もまた、来る時期になりました。この姫をさしださなければなりません。」と言いました。八岐大蛇について尋ねると「一つの胴体に八つの頭と尾をもち、目はホオズキのように真っ赤で、その長さは八つの谷と八つの尾根にまたがるほど巨大で、腹はいつも血でただれている」と言います。?尊は娘を妻にもらうことを条件に八岐大蛇を退治する約束をしました。そして老夫婦に強い酒をつくり、八つの酒槽にわけて置くよう命じ、大蛇の現れるのを待ちました。やがて八岐大蛇が地響きを立てながらやって来て、その酒を一気に飲み干し、すっかり酔っぱらって寝込んでしまいました。そこに素戔嗚尊が踊り出て、酔いつぶれた大蛇をずたずたに切り刻むと肥の河は、真っ赤に染まったという出雲の国の神話です。
2016 に組・東芝 纏と唐獅子牡丹 北村 隆 地震とともに火事は最も恐ろしい災害である。享保四年1719年大岡越前守忠助の名により「いろは四十八組」制度ができた。火事装束はまさに火消しの「勇み」「気負い」の象徴ともいい纏のもとに総力を結集して消火作業を行い纏が火を消したとまで言われた。火事場に命を懸けた火消したちを描き「意気地と粋」の庶民文化を高らかに謳いあげたものであり、颯爽たる「男伊達」に象徴される。のちに纏も悪霊や邪気を払うものとしてつかわれはじめた。「百花の王」と言われる牡丹の下で身を守る唐獅子もまた「百獣の王」と言われており獅子頭には強い霊力があり悪い気を食べてくれるという。?纏と唐獅子ふたつの邪気を払うという力を表現した。
2016 私たちのねぶた自主製作実行委員会 船弁慶 私たち一同 壇ノ浦で平家を滅ぼしたものの、兄頼朝に疎まれ追われる身となった源義経は、弁慶らと共に摂州大物浦から西国へと向かう。だが、海に出ると俄かに暗雲がたちこめ、海は荒れ、大波が逆巻き始める。その時、波間から平知盛の亡霊が、壇ノ浦で滅びたはずの平家一門の亡霊を引き連れて現れる。
2016 パナソニックねぶた会 怪力朝比奈、北条に挑む 北村 蓮明 源頼朝の死後、妻政子の一族北条家が執権となり、すべての政を手中に収めていた。将軍をしのぐ勢力をもつ北条義時は、ことの責任を相手に負わせ、結果を自分の懐中に入れる北条流儀で、一緒に戦った仲間を次々滅ぼしていた。一方、将軍實朝に仕える和田義盛は、極めて信望の厚い、誠実無二の武人であった。建保元年、北条氏の野心に業を煮やした義盛が乱を起こすや、三男朝比奈三郎義秀は、父と共に幕府と北条を襲ったのである。鎌倉三代、幾十となく繰り返された合戦の中で和田義盛の人物像を反映してか、いかにも男らしい咲く花の散る合戦であったという。怪力で知られる朝比奈が最も勇戦する「和田合戦」の一場面である。
2016 青森市PTA連合会 源三位頼政 鵺退治 内山 龍星 平安末期、近衛天皇の住む御所に、夜ごと黒雲とともに不気味な鳴き声が響きわたり、帝を悩ませていた。そこで、弓の名手として名高い「源三位頼政」に勅命が下った。頼政は、先祖の「源頼光」より受け継いだ弓を手に、二矢を持参し家来の「猪早太」と妖怪退治へ向かった。真夜中、御所の上に黒雲がたなびき怪しげな妖怪がいる。頼政は弓矢を黒雲めがけて矢を射った、すかさず猪早太が落ちてきた妖怪にとどめを刺した。火を灯して見てみると、正体は頭が猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした「鵺」であった。
2016 日立連合ねぶた委員会 忠臣蔵 北村 蓮明 播磨の国赤穂の城主浅野内匠頭は、松の廊下で起こした刃傷事件により、即日切腹。そして浅野家のお取り潰しが決定した。筆頭家老大石内蔵助は、大混乱に陥った藩内をまとめあげ、赤穂城を開城する。その後、浅野家再興のために奔走するが、願いは叶わず、主君の無念を晴らすため、大石ら四十七人の同士は吉良上野介への仇討ちを決行するのである。元禄十五年十二月十四日、前日から降り続いた大雪が止み、空には煌々と寒月が冴え渡っていた。ねぶたは、意を決し討ち入りの太鼓をたたく大石 内蔵助と、吉良の家臣で、剣の鬼と呼ばれた清水一学の防戦の雄姿である。
2016 青森県板金工業組合 匠の奇人 左甚五郎 北村 蓮明 左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人で、生き物を彫ればそれに魂が宿り、夜な夜な歩き出すと言われる程の名人である。日光東照宮の『眠り猫』、見ざる言わざる聞かざるの『三猿』や成相寺の『真向の龍』など、数多くの彫刻を残している。「左」姓を名乗ったのは、”左利きだった為”や”腕の良さを妬まれ右腕を切り落とされた為”などの説がある。ねぶたは、主君の姫を匿っていたところ悪人に知られてしまうが、唐獅子と龍が動き出して悪人を追い散らかしたという場面。
2016 県庁ねぶた実行委員会 大物之浦 大白 我鴻 平家を滅ぼした後、兄の源頼朝と不仲になった源義経は、嫌疑を晴らすべく都落ちを決意し、西国へ向かう。摂津国尼崎大物浦から義経一行が船出すると、俄かに風が荒れ始め、壇ノ浦で滅ぼされた平家一門の怨霊たちが波間に現れ、一行の行く手を阻んだ。なかでも龍神を従えた平知盛の怨霊は、是が非でも義経を海に沈めようと、薙刀を振りかざして襲い掛かってくるが、弁慶が五大明王に祈ると怨霊は遠ざかり、波間に消えて失せていった。
2016 あおもり市民ねぶた実行委員会 陰陽師、妖怪退治 北村 麻子 陰陽師それはこの国の「守り人」とも言われている。陰陽師とは、古代の日本に存在した呪術、占術「陰陽道」を用い、吉凶を占い幻を現し、時には呪いや鬼さいも操ったと言われています。?陰陽師が最も活躍したのが平安時代である。その平安時代は平安とはうらはらに闇と迷信が支配し、怪異や天変地異、物の怪や怨霊が世を乱すと思われていた。人々は神、鬼、精を「もの」と呼び恐れ、「もの」は人に取り付き、ある時は疫病を流行らせた。?どこからともなく現れ、人々に不幸をもたらす妖怪変化。それらと戦い、あるいは前兆を読み、不浄を取り除くことが陰陽師の役割だった。人々は彼らを畏怖の念をもって「陰陽師」と呼んだ。このねぶたは、陰陽師が霊符を用い、魑魅魍魎を退治している場面である。
2016 消防第二分団ねぶた会・アサヒビール 三国志・虎牢関「関羽と呂布」 千葉 作龍 二世紀末、中国後漢の代。朝廷の腐敗により世は乱れ「黄巾の乱」が起る。漢王朝の血を引く「劉備玄徳」は桃園で義兄弟の契りを交わした「関羽雲長」「張飛翼徳」と共に黄巾討伐の軍に加わる。やがて平定されるも再び「董卓」の横暴により朝廷は乱れ董卓追討の命を受けた「曹操」らの軍に参戦した。「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と謳われる董卓随一の臣「呂布奉先」。豪雄「関羽」と名馬「赤兎」に跨る「呂布」との「虎牢関」での激戦である。
2016 ヤマト運輸ねぶた実行委員会 俵籐太と竜神 北村 隆 平安時代中期、瀬田の唐橋の下に棲む竜神は大百足に悩まされていた。そこへ通りかかった田原籐太秀郷の豪胆さを見込んで百足退治のため龍宮へ案内する。竜神に頼まれ三上山の大百足を退治した秀郷はお礼として慈尊出世を告げる名鐘と米の尽きることのない米俵や名剣を贈られた。こののち田原籐太は俵籐太といわれる。名鐘は三井寺へ納められ「三井の晩鐘」といわれ、名剣は「蜈蚣切」の名で宝刀として伊勢神宮に所蔵されている。いわゆる大人の龍宮伝である。
2016 東北電力ねぶた愛好会 北方の王者「藤原秀衡」 京野 和鴻 時は現在から900年程前の平安時代末期、藤原氏は、百年に渡って繁栄を極め、平泉(現在の岩手県奥州市)は平安京に次ぐ日本第二の都市となりました。藤原秀衡は、平泉文化を大きく華ひらかせた人物で、清衡、基衡から受け継いだ平和な理想郷の意志と厚い信仰心を持ち、源平合戦の折には、平氏、後白河法皇、源氏のいずれにもつかず中立を保ち、陸奥(現在の青森、岩手、宮城、福島県)を守ってきました。しかし、平氏を滅ぼして勢力を拡大してきた鎌倉の源頼朝が陸奥を手中にしようと狙ってきましたが、藤原秀衡は源頼朝の命令を忠実に実行するものの、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考え、兄 頼朝と対立して追われた源義経を頼朝との関係が悪化する事を覚悟で受け容れました。実質的な戦いには至らなかったものの、頼朝からの引渡要求を拒み続けた強い意志の持ち主であった、北方の王者「藤原秀衡」をねぶたで再現したものです。この東北を守り続けた藤原秀衡の姿に、地域の復興・発展の思いを重ね合わせ、第49回目の出陣をいたします。
2016 マルハニチロ侫武多会 海神と山幸彦 手塚 茂樹 昔々…?兄の海幸彦(うみさちひこ)から借りた釣針を無くした弟の山幸彦(やまさちひこ)は、どうすることもできず困り果て、海岸に座り込んでいた。そこへ突如現れた塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより、深海に住む大海の主、海神(わだつみ)の宮を訪ねた。?海神は大いに歓迎し、娘の豊玉毘売(とよたまひめ)と結婚させ、山幸彦も時を忘れて日々を楽しんだ。数年後、深いため息と共に悩みを打ち明けた山幸彦を見た海神は、全ての魚達を集めて調べることにした。すると、長い間喉の痛みを訴えていた大鯛から、例の釣針が出て来たのである。?鰐鮫(わにざめ)に乗って地上へ帰る山幸彦に、海神は釣針と、潮の満干を司る霊力を持った『潮盈珠(しおみつたま)』と『潮乾珠(しおひるたま)』を授けた。?釣針を返しに兄のもとへ戻った山幸彦だが、海幸彦は素直に受け取らず争いになる。山幸彦は海神から貰った珠の効力で降参させ、その後は助け合い仲良く暮らしたのであった。?生命の源である、広大な海。最近は環境汚染が進みさまざまな弊害も起こっている。この状態が続けば、やがて我々は海神の怒りに触れるであろう。?美しい海を、地球を未来に残すため、これからも自然の大切さを考えていきたい。
2016 青森自衛隊ねぶた協賛会 大元帥明王 有賀 義弘 大元帥明王は古代インド神話に登場する鬼神アータヴィカに由来し、元は悪鬼神とされたが大日如来の功徳により善神へと変じた。明王の最上尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされ、一説には「すべての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」といわれる。怨敵調伏、必勝祈願、国家鎮護に絶大な功徳を持つと信じられ、宮中では古くから「大元帥法」という修法が行われていた。?その力は護国防衛、敵国粉砕だけにとどまらず、反乱や疫病の平定、雨乞いや天候の変化にまで及ぶ。また、陸海軍の最高位の称号をこの明王にならって「元帥」「大元帥」と呼ぶようになったともいわれている。
2016 日本通運ねぶた実行委員会 茨木童子と渡辺綱 千葉 作龍 平安時代、魑魅魍魎の蠢く京の都。源頼光・四天王の一人渡辺綱は羅生門に夜な夜な現れては人々を襲い恐れられていた茨木童子という鬼人の腕を切り落とした。綱は鬼人の崇りを鎮めるため七日間の物忌みをしていると伯母に化身した茨木が訪ね来て鬼人の腕を見せろとせがむ。しぶる綱であったが仕方なく腕を取り出すや否や茨木は突然正体を現し腕を奪い取る。綱は愛刀・髭切丸を抜き切りかかるも茨木は屋根の破風を蹴破って天空の彼方へ飛び去った。
2015 青森市役所ねぶた実行委員会 達磨大師 喝 外崎 白鴻 達磨大師は、5世紀後半から6世紀前半の人物で、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。宋(南朝)の時代に中国に渡り、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行ったことで悟りを得たと言われ、「少林寺武術」の開祖ともされている。達磨大師の説いた教えは、鎌倉時代に日本に伝わり、「禅」と呼ばれ、禅宗という宗派が誕生した。この教えとともに、達磨大師の肖像や伝説を描いた画も伝わり、達磨大師の姿は、禅画として今も数多く残されており、民衆には「七転び八起き」、「必勝」等の縁起物として親しまれている。このねぶたは達磨大師が9年間、壁に向かって座禅し続け、不撓不屈の精神にて悟りを得た姿であり「喝」の怒声にて己が煩悩を振り払い、また、迷い苦しむ者へ救いの道を示す姿を表したものである。
2015 JRねぶた実行プロジェクト 津軽海峡 義経飛龍 竹浪 比呂央 悲劇の英雄、源九郎判官義経。実の兄である源頼朝から追われ、北へと落ち延びるも奥州平泉の地(岩手県平泉町)にて襲撃を受け自ら命を落とした。しかしそれより後、人々の間では「義経は生き延びてさらに北を目指した」と、まことしやかに伝えられてきた。蝦夷地(北海道)へ渡ろうと、津軽半島の北の果て、三厩(青森県外ヶ浜町)へ辿り着いた義経だったが、津軽海峡は暴風が吹き荒れ、波高く、飲み込まれそうなほどおそろしい勢いで潮が流れている。とても船を出すことかなわず、進路を絶たれてしまった。そこで義経、肌身離さず持っていた観音像を波打ち際の岩上に置き、風波が治まるよう、三日三晩、一心不乱に経文を唱え続けた。そして満願を迎えた夜明 け。義経の前に白髪の老人が現れ、三頭の神通力を持った竜馬を与えると告げると、たちまち霞のごとくその姿は消えてしまった。岩の上から下りてみると、岩穴に三頭の駿馬が繋がれていた。授かりし竜馬に跨り、いざ蝦夷地へ向け荒れ狂う津軽海峡を翔け渡らんとする義経とその郎党武蔵坊弁慶の姿である。来年に控えた北海道新幹線新青森~新函館北斗間の開通による青函圏の緊密な交流と更なる繁栄を願い奉るものである。
2015 日立連合ねぶた委員会 三井寺合戦 新田四天王大暴れ 北村 蓮明 鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は天皇中心の公家を重視した新しい政治を始めた。足利尊氏は武家政治の再興を目指して、後醍醐天皇に反旗を翻し京都を奪回。建武の新政はわずか三年足らずで崩壊した。天皇方は比叡山を拠点として、京都奪還を目指す。天皇方の新田軍は、琵琶湖畔の三井寺に立てこもる足利軍に攻め入ろうとするが、堀にかけてあった橋をはずされており、攻めあぐねていた。そこで新田義貞の部下の篠塚、亘理、畑、栗生の四人が大暴れ。大卒塔婆を引き抜き橋をかける者。門柱を倒す者。仁王像を投げ飛ばす者。周りをなぎ倒しながら三井寺へ攻め入る新田四天王の大活躍の場面である。
2015 ねぶた愛好会 風神雷神 諏訪 慎 風神雷神は、人が怖れを抱くほどの偉大な力を見せる天然現象で、最も代表的な強風と雷鳴を、それぞれ神格化したものです。農業の守護神である風神、豊作をもたらす雷神は、農耕に欠かせない神として、古くから信仰されてきました。ねぶたは、大きな力を与えてくれる風神雷神と福を呼び込み、邪気をはらう獣神(じゅうしん)、方位を司る四神獣(しじんじゅう)で、五穀豊穣、海難回避を祈願するものです。
2015 青森自衛隊ねぶた協賛会 南総里見八犬伝 「庚申山の妖猫退治」 有賀 義弘 八犬士の一人である犬飼現八信道は、下野国で出会った犬村角太郎と共に庚申山の妖猫を退治し、人々を苦難から救った。角太郎は、その功績により霊玉を授り名を犬村大角礼儀に改め八犬士の一人となる。南総里見八犬伝は室町時代後期を舞台に、安房国里見家の伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持ち、牡丹の形の痣を持つ八犬士の物語である。彼らは仁義八行の玉の因縁に導かれ出会い、華々しく活躍しながらやがて里見家の下に結集し、里見家の危難を救うのであった。本作品は、妖猫を見事に退治し里見家を護る使命を完遂した八犬士に、陸上自衛隊第九師団が、国防という崇高な使命を愚直に完遂する姿と重ねたものであります。我々は今後も、いかなる任務も即応して完遂し、国民・地域の皆様の負託に応えて参ります。
2015 青森市PTA連合会 劉根・鬼神を呼び寄せる 内山 龍星 前7年成帝(せいてい)の時に、劉根は侍従官に任じられたが世を捨て仏道を学び、河南省の断崖絶壁の上にある崇高山(すこうざん)の石室に籠った。劉根 は疫病除けの法を知っており、河南省に疫病が流行るとその法を役人に教えた。そこで、役人がそのとおりにすると本当に疫病が絶えたといわれる。ところが新しく役所の長官に赴任した張氏は、劉根を怪しい術をなすという理由で出頭させ処刑しようとした。張氏は劉根に「道術で鬼神を呼び寄せてみよ」 と命じた。すると劉根は数百の鬼神を操り、後ろ手に縛られた老翁、老婆を車に乗せて役所の中に出現させた。それがすでに死んでいた張氏の老父母だったので 張氏は大いに驚き、叩頭して劉根に許しを請うた。だが、劉根は許さず、張氏も家族の者も間もなく死んでしまったという。その後暫くして、劉根は鶏頭山に入 り天に昇って仙人となった。
2015 マルハニチロ侫武多会 三国志より 張飛 長坂橋に吼える 手塚 茂樹 桃園の誓いで劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ、中国三国時代の豪傑張飛翼徳は、一人で一万の兵に匹敵するといわれる程の勇猛さで、多くの武将から恐れられていた。後漢末期、劉備軍は敵対する騎兵五千の曹操軍から追撃され、とうとう当陽県の長坂で追いつかれてしまう。曹操軍を阻止する為、張飛はわずか二十騎を率いて長坂橋へ向かった。この橋を越えなければ劉備軍の所へ攻め入れないのである。張飛は一人その橋上へ立ち塞がった。そして、眼前に迫った曹操方の大軍に対し「我こそは張飛なり!勝負したい者は前へ出ろ!」と目をいからせ蛇矛を振り上げ、地鳴のような声で大喝した。さすがの曹操軍も、この鬼のような迫力には怖れをなし、すごすごと退却するしかなかった。すぐさま張飛は部下に橋を破壊させ、見事に自軍を危機から救ったのであった。外敵から国を守るため、一人強大な勢力に立ち向かった張飛の勇姿に、困難が絶えない世の災いを払い、平和が続く事を祈り願うものである。
2015 消防第二分団ねぶた会・アサヒビール 進藤庄兵衛・津軽信義を諌める 千葉 作龍 正保四年(1647)江戸津軽藩上屋敷。津軽三代藩主「信義」は知人の大名たちを招き酒宴を催していたが生来の酒乱の悪癖のために客の大名たちは次々と席を立ってしまった。これに腹を立てた信義は刀を抜き追いかける。しかし門外での忍傷ざたはお家取り潰しにもなりかねない。その時家臣の「進藤庄兵衛」は命懸けで信義を引き止める。その時信義の振り降した刀が庄兵衛の懐中の「千手観音」に当たり難を逃れたのであった。(ねぶたの場面)庄兵衛は信義亡き後も名君と誉高い四代「信政」にも仕え「国にも替わる忠臣なり」と言わしめたという。庄兵衛はその後、信政に青森城代家老として重用され、御仮家(出城)を建て盲目の弱者を起用し堀を作り又、新町に市を開くなど青森の発展に尽力した。そのジョッパリ精神は「鬼の庄兵衛」と称され現在も広田神社に奉られている青森中興の祖である。
2015 あおもり市民ねぶた実行委員会 平将門と執金剛神 北村 麻子 平将門の乱での出来事である。平将門の乱とは、本来はあくまで一族の「私闘」であったが将門軍が国府とその周辺で略奪と乱暴の限りを尽くし朝廷に反旗を翻し関東一円を手中に収め、さらに自らを「新皇」と名乗ったと言う出来事である。東大寺三月堂の北側、厨子の中に祀っている執金剛神の前で朝敵降伏の法を行っていたところ、像の右錺が大蜂となりまた像からたくさんの蜂がでて東の戦場 へ向かって飛んでいった。戦場では大蜂が平将門を刺し、この乱を平定したという。朝敵降伏の法が行なわれている時、この像が姿を消し二十日あまりして、ま た元のところへ帰ってきたとも言われている。
2015 NTTグループねぶた 張順、湧金門の勇姿 北村 春一 「水滸伝」に登場する好漢のひとり、張順。潜水泳法の天才で、渾名は波の上を駆ける白い魚を意味する「浪裏白跳」と言われ、梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。敵軍が杭州城に篭城した際、城に面した湖から水門を通って城内へ忍び込むことを進言。豪傑百八人の思いを背負い、たったひとり泳いで向かう。鉄格子の水門を破り城門前まで忍び寄るが、敵の罠により一斉に攻撃を受け壮絶な最期を遂げる。梁山泊軍を勝利へ導くことになった杭州湧金門での張順の勇姿を、たとえ険しい道であろうと前へ進む挑戦者の姿と重ね、未来への希望と思いを込めてねぶたの場面とする。
2015 県庁ねぶた実行委員会 封神演義 大白 我鴻 紀元前十一世紀、人界では殷王朝の最後の王となる紂王が即位した。紂王は名君とされていたが、その優れた資質ゆえの慢心から、神である女?の祭儀において「女?は人間界のどの人間より美しい」と人間と混同した不敬な詩を読んだことから女?の怒りをかった。女?は千年狐狸精に紂王を陥れるように命じ、千年狐狸精は紂王の寵妃である妲己の魂魄を滅ぼし身体を奪いとり、妲己になりすまして紂王を堕落させ暴虐な政治を行わせた。一方仙界では、新たに神界を創設する計画が進められていた。その執行者として選ばれた姜子牙は、神界を創設するために周を助けて殷を滅ぼし、その戦いの戦死者を神に封ずる封神の儀式の司祭を務めるよう命じられる。姜子牙が巻き起こす殷周両軍の戦いは、仙界の仙人や道士の加勢を受け、壮絶な戦乱へと突き進む。ねぶたは、四不相に乗る姜子牙に対し、敵対する弟弟子の申公豹が白額虎に乗り稲妻を随意に走らせることのできる「雷公鞭」を駆使する場面である。
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